東久留米市の歴史|東久留米市ポスティング.com

  1. TOP
  2. 東久留米市の歴史

東久留米市の歴史

東久留米の地に人類が住み始めたのは、約3万年前の旧石器時代のことです。このころの遺跡が、湧水と河川に面した台地上に数多くあり、当時の人々の生活の跡や、道具の石器が発見されています。
市内にある遺跡では、縄文時代のものが最も多く、特に約5千年前の中期の大規模な集落跡が、台地上に多く残っています。特に立野川南岸の自由学園南遺跡の中期集落は、武蔵野台地でも最大規模の集落跡の一つとして知られています。このような原始時代の遺跡が、市内では100ヶ所以上発見されています。
弥生時代には米作りが始まりましたが、そのころの遺跡はほとんど残されていません。それは、東久留米の地形が、細い川と低い台地で成り立っているため、米作りに適さない土地だったためと考えられています。
奈良時代や平安時代の東久留米も、米作りに適さなかった土地のためか、小さな村がいくつかあっただけでした。しかし、鎌倉時代や室町・戦国期の供養搭である「板碑」が市内に数多く残されていることから、それらを生み出した集団や寺院があったことが分かります。当時武蔵野一体は、多数の小武士団が割拠していた時代でした。そして、時は戦国の世となり、最終的に徳川家康が天下を統一し、江戸に幕府を開きました。
江戸時代になると、武蔵野は大都市江戸の町の食料供給地の役割を担うようになります。東久留米では、正保年間(1644年〜1648年)に門前・神山・落合・小山・南沢・前沢・下里の7村がありました。その後、元禄期に柳窪村ができ、享保年間(1716年〜1736年)になると、幕府の新田開発の奨励により、前沢新田や柳窪新田が開かれました。このころの村は、幕府直轄領と旗本の知行地に分かれていましたが、市内に領地を有した旗本として、市内に領地を有した旗本として、米津(よねきつ)家・蜂谷家・田中家・小野家・矢部家・神谷家がありました。米津家は、一万石以上の大名で、初代の田政は江戸町奉行として知られています。幸町にある米津寺は米津家の菩提寺で、4代の当主や親族の墓碑が並び、江戸時代大名墓所の景観を今に伝えています。
慶応3年(1867年)、明治政府が誕生し、東久留米は行政的に大きな変化を受けました。明治2年(1869年)には品川県、翌々年には神奈川県に編入され、その後、数度の変遷を経て、明治22年(1889年)に8村と、柳窪新田・栗原新田・各飛び地を編入して久留米村が誕生しました。
久留米村は典型的な農村地帯でしたが、大正4年(1915年)、池袋〜飯能間に開通した武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)と、東久留米駅の開設によって、村は大きく発展しました。これらにより、生産物や物資の流通が進み、人の往来も盛んになりました。
東京近郊の農村の姿を留めていた久留米村は、第2次大戦後、人口が増加し、昭和30年(1955年)には1万人に達しました。その翌年に町制が施行され、30年代後半から、ひばりが丘・東久留米・滝山・久留米西などの団地が次々と建設され、人口は急激に増加しました。そして、昭和45年(1970年)に市制が布かれ、東京都で22番目の市、「東久留米市」が誕生しました。東久留米市の基本構想は、「水と緑とふれあいのまち」であり、市民主体のまちづくりを目指しています。

(東久留米市資料提供)
東久留米市のタウン情報-駅周辺情報 ※駅名をお選び下さい。
-沿線- -駅名-
西武池袋線 東久留米